​時は一瞬で、永遠に

 

「見て、向こう岸の花が水面に映っていて綺麗。触れられる花や景色よりも、

水面や鏡に映っていた方がずっと儚くて美しいと思うの、幻想的で」

「綺麗だね。けど、手にとって触れられるものの方が好きだな」

「なんで?」

「胸いっぱいに息を吸ってごらんよ。植物の香りや、土の香りがするでしょう。生きているってこんなことだと思うんだよね。それに、水面や鏡に映った君に触れることはできないし、それらが壊れてしまったら君を見ることすらできなくなってしまうから」

そう言って、彼は少しの恥じらいもない笑みを自分に向けると、静まりかえった水面鏡に小石を放り投げた。

平和で退屈そうな水面は途端に滅びて、映すものの全てを失った。

また同じ夢だ。

あの日の光景は目蓋の裏を鮮明に色付け、それは途端に終わりを迎える。

目蓋の裏に染み付いた輪郭のない色がゆっくりと消えていき、曇天の天井を映し出す。

あの日から、惰性に身を流されながら何となく続いている昨日までの毎日と同じ天井。カーテンの隙間から見える窓の外は、月明かりが漏れるわけでもなく、陽の光が差し込むわけでもない、曖昧な群青の闇が漂っている。

一人では持て余してしまうベッドの端の方に足を伸ばしてみると、そこにはひんやりとした木綿のシーツだけが横たわっていた。

 

悲しみや絶望は遅れてやってくる。

いや、正しくは遅れてやってくるのではない。自分は悲しみや絶望という怪物から目を背け、必死に逃げ惑う弱い人間なのだ。

それらの怪物が私の背中を捉えると、五月雨式の弾丸のように私を撃ち抜いて闇の中へ姿をくらます。

こんな時、世間では〈心にポッカリ円い穴があいた〉なんて比喩をするが、そんなに綺麗なものなんかではない。自分という形を保っていることで精一杯な、蜂の巣のように無数の穴が空いた心の隙間からは、だらだらと流れ落ちる真っ赤な血のように、温かい思い出も、眩い希望も、自分を形作るその全てが流れ出していく。必死になってそれらを縫い合わせても、そのうち空っぽになってしまう。そのうち、息をすることの意味さえ分からなくなってしまうのだろう。

そんなことを考えているうち再び目蓋を閉じていた。

 

遠く不鮮明な景色の先から誰かに呼ばれているような音がする。

その音は段々と近づいてきて、それが目覚まし時計の音であると理解するまでには、そう時間は掛からなかった。

重い目蓋をこじ開け、怒りをぶつけるかのように雑に放り投げた腕で目覚まし時計を引き寄せる。

夢と現実の境では自分を呼ぶように聞こえた音も、今となっては空襲警報のように生の実感を突きつける騒音にしか聴こえない。今の自分にとっては、五感で感じ得るすべての事象が生を突きつけてくる、恐ろしく不安な怪物なのだ。目覚まし時計を握り潰すかのように雑に掴むと、音はやっとのことで鳴り止んだ。静寂が訪れたと安堵した間も無く、傍迷惑なスヌーズ機能がしっかりと務めを果たさんと、再び布団の奥底で鈍い音を響かせ、私を苛つかせる。いくら惰性に身を任せた日々を送ろうとも、自分が自分である限りは、現実というものは幾たびも顔を覗かせ、私の背後を今か今かと狙っている。

鉛のように重い身体を半身起こし、カーテンの隙間から窓の外を見ると雨が降っていた。

つい先日まで紅色の凛とした花弁をつけていた花は、冷たい大粒の雨に打たれて、そのほとんどが目下の水溜りに落ちてしまった。それらは雨粒と共に水面を揺らしていた。Aはしばらくの間、窓に滴る結露の滴と、その導の先で降り続ける雨粒を眺めていた。椅子の背もたれに乱雑にかけられたシャツやネクタイ、寝癖のついた髪の毛、明瞭としない起床後の意識、今日もあの日から変わらない朝。Aは外界を遮断した、安全で平和な光景が今日も続いていることに安堵をすると共に、逃げ続けることのできない記憶が、もうすぐそこまでやってきていることにも気が付いていた。多くの物事は時間が解決してくれるとよく言うが、厳密に言うと、時間をかけて少しずつ、悲壮と自分自身が和解をしているだけであって、時間そのものが勝手に解決をしてくれているわけではない。結局のところは自分次第である。

 この世の全ての事象には、始まりがあれば終わりが約束されている(その終わりが故意か無意であるかは当人次第であるが)。

それらを持たないモノはこの世に存在するとは言えないのだ。この世すらが始まりがあって終わりがあるのだから。物事が終わってしまってから後悔するのではもう遅いと他人は言うが、同時にそのほとんどに気が付けないのが生きる者の常のならわしである。気が抜けてベタベタと絡みつき、苛立ちすら覚える、気が抜けて砂糖水に成り代わった炭酸飲料のように、暮れてからの後悔は今更どうしようもない。少し先の未来へ向かい、今を生きる私たちにとっては、その砂糖水は歩みを阻む危険な代物である。無理をして飲み干すか、蒸発しきるのを待っていることしかできないのだ。結局処理するのは自分自身以外の何者でも無い。

 

 今日はこのまま布団に埋れて過ごしてしまえばいいとも思ったが、このまま部屋でぼうっとしていれば、あの日の記憶がまた私を探しにきて、より一層現実を突きつけてくるかもしれないとも思ったので、特に当ても無いが街に出てみることにした。

ある程度の身支度を整え、椅子に乱雑にかけられたシャツとコートを羽織り、部屋を出た。

 雨の降りしきる街には思ったよりも人が溢れていた。特に目的を持たずに家を出てきてしまったAは、少したじろいでしまった。

あの頃から街は何も変わっていないというのに、今のAの目に映る、連なる高層ビルは威圧的で、人々の視線は透明になってしまったAを突き刺し、通り抜けていくようだ。自分の脚で外に出てきたにも関わらず、この場から逃れたいという一心で、早足で中心街を通り抜ける。

 

あの頃の早足は、期待に胸を膨らませる軽快な足音と、響音するように高まる鼓動と、踊るように揺れるシャツの裾。

今日の早足は、逃げるような足音、不安に駆られる鼓動と、雨に濡れて重々しくも踊ってみせるシャツの裾。

しばらく歩くと人々の雑踏は薄れ、傘に反響した雨音が鮮明に聞こえるようになっていた。

Aはふと我に返って、雨の中特に目的もなく何をしているんだろうかと馬鹿馬鹿しくもなったが、少しおかしくも思えた。

 軽い散歩ということにして、このまま帰路につこうかとも考えたが、朝から何も食べていないことに気がつき、昼食を済ませてから帰ろうと決めた。中心街ではない為、そこら中に飲食店があるわけではなかったが、運よく道路の向こう側に喫茶店を見つけたので、特に迷うこともなく店に入った。

「いらっしゃいませ。お好きな席へどうぞ」

どこか懐かしい雰囲気の店内には、店主とみられる気の良さそうな年配の男性と、A以外には人がいなかった。しばらく外にいて身体が冷えていたので、Aは壁際の暖房近くの席についた。席について息をつくと、店内の至る所に花が生けてあることに気がついた。きっと店主の趣味だろう。特にこれといって食べたい物もなかったので、適当に目についたサンドウィッチと珈琲のランチセットを注文した。料理を待っている間、ぼうっと窓の外を眺めていると、窓際に生けられた菖蒲と曼珠沙華が目に入った。花や植物に特段詳しいわけではないが、Aは初夏に咲く菖蒲と、初秋に咲く曼珠沙華の、本来なら合い見えないはずの組み合わせが気になった。そんなことを考えていると、注文をしたサンドウィッチとコーヒーを店主が運んできた。

「お待たせしました。ごゆっくり召し上がってくださいね」

「ありがとうございます。あの・・・窓際に生けてあるお花は咲く季節が違いますよね?

それも今は冬ですし、なぜあの組み合わせなんでしょう」

そこまで気になっていたわけでも無かったが、なんとなく聞いてしまった。

「ああ、やっぱり気になりますか」

店主は温かい笑顔で云う。

「月並みな理由ですが、亡くなった連れが好きだったんです、曼珠沙華。

菖蒲は私が好きで。

夏の花と、秋の花をこの季節に生けるなんておかしいですよね。

でもね、合い見えない花でも同じ土の上に芽吹いて、花をつけ、散り、次の世代への養分となっていくでしょ。繋がっている気がするんです。

私よりもずっと早くにこの世を去って、一時期は私とあの人は運命的には繋がっていなかったんだ、出会わなければ良かった、とまで悲壮に暮れる毎日を過ごしていた時期もありました。

でも、結果的には私という人生を記憶や、経験という形で豊かに肥やしてくれていることに気がついたんです。

物理的に失ったことは事実かもしれないですが、その時間が私の中で永遠に動き続けていることもまた、私にとっては事実なんです。それがいい思い出であってもそうでなくてもね」

店主は幸せそうな表情でそう教えてくれた。

「そうなんですか。」

見透かされたような言葉になんと返せばいいのかわからず、言葉に詰まってしまった私はにはこう答えることしかできなかった。

店主はまた軽く微笑んで、軽く頭を下げると厨房に去って行った。

 

「お気に入りの服でとびっきりのお洒落をして、喫茶店で本を読むのが好きだなあ。贅沢をしている気分にならない?」

「そうだね。でも、珈琲にそんなに砂糖を入れてるんじゃまだまだ子供だね」

私はからかった口調で言った。

「ブラックは苦手なんだよ。形から入るタイプだからいいの。」

向かいに座るあの人は子供のような無邪気な顔で、照れ臭そうに言った。

 

筆の足跡を残すように繊細に描かれた花々と金色で縁取られたカップには、

澄んだ琥珀色の珈琲が大人しく納まっていた。私は静寂に包まれた琥珀色の水面に、角砂糖を二つ投げ入れてみた。

Aはサンドウィッチと珈琲が冷めないうちにそそくさと口に運んだ。サンドウィッチを食べ終わると、カップには一口ほどの珈琲が残っていた。しばらく琥珀色の水溜りを見つめた後、カップの天地をひっくり返すかのようにして、それを飲み干した。底に溜まった砂糖が流れ込み、それはうんと甘い一口であった。

 

空になったカップの底には、一輪の花が描かれていた。

——やっぱり甘すぎる。

 

店を出ると雨は依然と降り続けていた。

深く息を吸うと冷たい空気と雨に濡れた土の香りが身体中を満たす。

いつか私が大輪の花を咲かす為の雨かもしれない。

私がさようならと口にした時に降り止むのだろう。そんな気がした。

​Written by SiiK