THE TRUHT

途方もなく高い所から落ちるような感覚と同時に、ハッと目を覚ました。

はっきりとしない寝ぼけ眼の私は、一瞬別の人間になっているかのような錯覚に落ちていたが、何か夢を見ていて飛び起きたのだということを徐々に理解した。無意識に固く握られていた拳をゆっくりと開くと、びっしょりと汗をかいていることに気が付く。枕の横に置いてあるスマートフォンを手に取り時間を確認する。午前6時58分。どうでもいいが、目覚ましのアラームよりも先に起きてしまうと何だか損をした気分になる。2分後に鳴り響く物々しいアラームを先に解除して、一人にしては広すぎるベットから身体を起こす。向かいの壁に四角く切り取られた窓のその先には、花をつけた木蓮の枝が風で揺れている。いつ見ても変わらずそこにあって、景色を遮るこの木蓮の木が私は嫌いだ。まあそんなこともどうでもいい。

今日はいくつかの約束があるので、私は早々に朝の支度を済ませた。

モルフェウスが普及してからというものの、支度と言っても歯を磨いて顔を洗う程度のことで、もうしばらく鏡で自分の姿すらまともに見ていない。

先時代のVR技術がさらに発展し、数年前からは更に没入度の増した【仮想現実モルフェウス】が登場し、人々の生活の中心となった。VRゴーグルが仮想現実と呼ばれていた時代は、人の五感までは再現できなかった。あくまで表面的な仮想現実であった為、人々の生活が仮想世界に移行することはなかった。しかし、モルフェウスの場合はそれを装着することで、人の中枢神経に働きかけ、視覚や聴覚のみならずその他の感覚までもを仮想世界へ移すことを実現させた。いわば器である身体と、意識が完全に切り離され、意識のみが仮想現実へとダイブしている状態だ。世界中の大企業がモルフェウスの開発に注力を注ぎ、それらの発展と反比例するかのように、現実世界の人々の生活は廃れていった。生きていく上での必要最低限の衣食住、文化芸術やファッションなどは全てデータ化、むしろ数十年前の方が現実世界は発展を繰り返していた。

善と同時に人知れず悪が生まれるように、全ての事象には影が落ちる。どちらが影であるかは私には分からないが。

 私は椅子に座って、重々しく無機質なヘッドセットを被ると目を閉じた。

目を開くと一瞬のうちに私を囲むようにそびえ立つ摩天楼が現れる。

空がちっぽけに感じる程に連なるビル群。飛び回る小型の飛行機。昔S F映画で見たような未来的なファッションを纏った人々の雑踏。

ここには意識があるだけで器である肉体が無いために、貧困も戦争も病もない。では、それらの影はどこに落ちているのだろうか。

そんな考え事をぼうっとしていると、宙にウィンドウが現れた。メッセージが入ったようだ。

 

「まだ? どこにいるの」

「ごめん! 今入ったところ、急ぐね」

「はーい、いつものところで待ってる」

今日は友人のソムヌと新しく出来たカフェに行く約束をしている。ソムヌは昔からの友人だ。

ここ数年はモルフェウスで顔を合わせる事は多いが、現実世界では数年会っていない。

「ごめん、お待たせ」

「遅いよー。混む前に早く行こう」

顔を膨らませて怒ったフリをしたソムヌの顔は、テレビの中のアイドルを見ているように美しく可愛げがあった。

この世界では、肉体の全ては自分の好きなようにカスタマイズできる。身につけているアクセサリーや服もスイッチ一つで早変わり。ここには醜いものは存在せず、美しさのみが存在していた。時に俯瞰的にこの仮想現実を見ている私だが、実際のところは私自身も憧れの容姿にカスタマイズをしている。その姿が本当の姿であるように思い、昔からの幼なじみの顔、自分の顔や身体すら思い出せなくなってしまうことが最近ではよくある。

「また新しい服買ったの?」

「そう、可愛いでしょ。これ」

彼女は歩きながら体をこっちに向けた。

「うん、素敵。ゼンタングルだね」

「ゼン…タン……」

「ゼンタングル。ペン一本で描いた絵のことだよ」

「初めて聞いた。ペンなんて持つことないから知らなかった」

 

私たちは足早に目的のカフェまで歩いたが、着いてみると思っていたよりも空いていてスムースに入店することができた。

店内は見たことのない植物や花がびっしりと敷き詰められている。A Iが生み出したこれらの人工植物は肥料や水を与えずとも、一番美しいと思われる瞬間を留め、枯れることもなく散ることもない。店内にいる他の客は辺りの写真を撮ってみたりしているが、いつ何時撮っても変わらない画に、私は何故だか魅力を感じなかった。私たちは席に着くと店のメニューを手にとった。

「んー悩むなあ。どれにする? 決まった?」

正直なところどれでもよかった私は、代わり映えのない珈琲を指さした。

「これにしようかな」

「えー折角なら他になさそうなもの選べばいいのに」

「いいの、別に」

そもそもどれを選んだって本当に満たさられるわけではない、偽りの味がするだけである。

注文をするとテーブルの上にはどこからともなくあっという間に珈琲が現れた。ソムヌの注文したフルーツパフェに飾られた白い苺が目に止まる。

「ここにもないんだね、赤い色」

「そりゃそうだよ、モルフェウスでは赤い色は極力使用を禁じられているでしょ。心理的に危ない色だとかなんだとか」

「危険を連想させたり、人の攻撃性や色欲を助長する色。でしょ」

「あ、そうそう。それが言いたかったの」

ソムヌは満足げな顔をした。

「そういえばニュース見た?」

「ニュース? なんの?」

「ほら、冷凍睡眠の」

「ああ。見たよ」

私はコーヒーカップを口元に近づける。常に適温に保たれている。

「どう思う?」

「んー私は興味ないかなあ。こっちの生活も好きだけど実質的には自分自身が存在しなくなるってことでしょう。誰かが創作した世界じゃ私が私である理由がなくなってしまいそう」

「そっか」

心なしかBの返事は小さく聞こえた。

 

近頃では現実世界にある肉体を冷凍睡眠させ、意識のみを永遠にモルフェウスに移す人々が多いそうだ。

非合法な組織であるが、政府も黙認しているという。限りなく不老不死に近い存在である。

「ところで、今日この後の予定は?」

「特にないよ。どこか行く?」

「ちょっと行きたいところあるんだけどいいかな」

「うん。もちろん」

私たちはテーブルで会計を済ませようとタッチパネルを取ろうとした。

 

 

「……あれ? ログアウトできない」

隣のテーブルの声が聞こえる。

その一言は静かにそれでも着実に波紋のように店内に広がっていった。

 

 

「僕も出来なくなってる」

「私も。なんで」

「システム障害じゃない」

「モルフェウスのシステムは完璧でしょ、こんなことある?」

平穏な湖面に落ちた小さな滴は人知れず波紋を生み、気がついた頃にはそれは大きな波が打ち寄せる大海のようになっていた。

店内はパニックになる人々の声で騒然としている。

「システムからログアウトの表示が消えてる。ソムヌの方は?」

考えてもみなかったトラブルに私は焦りを隠せなかった。彼女の方を見ると、固まったように俯いていた。

「ねえ! 聞いてる?」

肩を揺らそうと私が手を伸ばすとソムヌは顔を上げた。その眼は赤く充血し、黒い瞳を際立たせてた。

「ごめん。着いてきて」

「え、何? どうしたの?」

「いいから。着いてきて」

ソムヌは私の腕を取って、精一杯の力で引っ張った。椅子から引きずり落とされた私はバランスを崩し、躓きそうになる。

「あっ! ねえ、お会計まだだよ」

私は状況が飲み込めずに、この後に及んでどうでもいいことを口走った。

「そんなことどうでもいいから、時間がない。急いで!」

 

店の外に出ると街中にも店内と同様の光景が広がっていた。

依然として私の腕は彼女に掴まれたまま。自分の腕を追いかける様に足を必死に前へ前へと動かす。強く握られた腕が痛くなってきたが、今彼女に何を言っても無駄だろう。ソムヌは昔から何かに夢中になると、外の声が聞こえなくなる。必死に彼女の背中を追いかけるが、思考は妙にスローモーションで、目に映る刹那的な風景との差に気分が悪くなりそうだ。

 ビルの隙間を縫って行くように走り続けた私たちは、中心街から大きく離れた路地を走っていた。この世界にもこんな場所があることを私は初めて知った。

「着いた、ここ。早く入って」

陰った路地裏にあるビルの裏口の前。息を切らしながらソムヌが言った。

私が返事をする間もなく、彼女はドアを開けて下に伸びて行く真っ暗な階段を降りて行く。

先の見えない暗闇へ続くその階段は思ったよりもずっと長いようだ。

「ごめんね、突然意味わからないよね」

ソムヌの声と階段を下る二人の足音だけが響く。

「ここの世界には貧困も戦争も病気もない。自分の見た目だって好きなように変えられて、ボタン一つで好きな服に着替えられる。夢のような世界でしょ。そう思ってたし、皆がそう思っていると思っていた。でもね、あなたと話しているとまだこの世界がなかった頃をなぜだか思い出すの。あなたの家にあった大きな木蓮の木の下で泥まみれになって、日が暮れるまでたくさん遊んだこと。喧嘩もたくさんした。あの時の私たちの笑顔や笑い声、転んで膝を擦り剥いた痛み。良いことも悪いことも、その全てが温かい思い出。今になって気がついたんだ、私が私である理由は私の意識と身体がある世界にしかないんだって。それが人の心だってことに」

暗闇はまだ続いている。

「実は知らされていたんだ、今日のこと。ずるいよね、私」

彼女の言うことが理解できない。

「どういうことなの?」

「着いたよ」

ソムヌの足音が止んだ。

目の前には暗闇に漂う赤い扉があった。漆黒に慣れた視界の中に突然現れた赤い扉は徐々に鮮やかな赤を帯びていくように見えた。

「この先に行けばログアウトできるから、ほら」

「あ、うん」

ソムヌは扉を開けると私の腕をまた強引に引っ張った。

「ほら、早く行って」

「ソムヌは? 一緒に行くんでしょ?」

状況が呑み込めずに瞬く間に過ぎて行く時間の中で、理解できないことへの恐怖だけが私を支配していた。

「あとで行く、必ず」

そう言って彼女は私の背中を強く突き飛ばした。

彼女の手首を取ろうと力一杯に腕を伸ばしたが、私の手はソムヌの身体を通り抜けた。

扉のその先に足場はなく、奈落の底へ向かうように落ちていく。

 

最後に見たのは、幼い頃に木蓮の木の下でみたソムヌの無邪気な笑顔。

右頬だけに大きな笑窪ができるあの笑顔。

 

<h1>disembysiik</h1>

<p>everything you see is not always true.</p>

<p>

  <a href=“real.com”>

    <img src="images/Morpheus-somnus.jpg" alt=”the/perfect/world”>

  </a>

</p>

 

途方もなく高い所から落ちるような感覚と同時にハッと目を覚ました。

はっきりとしない寝ぼけ眼の私は、一瞬別の人間になっているかのような錯覚に落ちていたが、何か夢を見ていて飛び起きたのだということを徐々に理解した。無意識に固く握られていた拳をゆっくりと開くと、びっしょりと汗をかいていることに気が付く。枕の横に置いてあるスマートフォンを手に取り時間を確認する。午前6時58分。アラームよりも2分先に起きた。なんだか得をした気分だ。2分後に鳴り響く物々しいアラームを先に解除して、隣に眠る彼を起こさないようにそっとベッドから降りる。向かいの壁に四角く切り取られた窓のその先には、赤い花をつけた木蓮の枝が揺れている。澄み切った空気に包まれ、煌々と陽光がそれらを照らし、朝露を纏う花々はまるで一枚の絵画のようだった。私はその絵画に引き寄せられるように窓を開け、その先に手を伸ばす。3月下旬の澄み切った朝の空気はまだ冷たさを帯びていて、朝露を煌めかせる陽光は暖かさを帯びている。風が吹くとつんざくような冷たさが袖口から入り込み、シャツを波打つように膨らませた。その風は木蓮の紅い花弁を数枚拐っていった。今年も春がやってくる、28回目の初めての春。私はそっと窓を閉じた。窓の外に出した手はほんのりと紅く染まっていた。

 

 同じような毎日でも、身の回りに起こるその些細な事象の全てが始まりと終わりを繰り返し、一度として同じ瞬間は訪れない。同時に、私の瞬間も終わりへと近づいていく。現実はあまりにも脆く儚いが、それ故に美しい。始まりと終わりを刹那的に繰り返すこの現実の世界にこそ、私が私である理由がきっとあるのだろう。完璧に作られた世界に真実の美しさなど存在し得ないのだから。

 

 私はクローゼットの引き戸を開け、暗闇に揺れる赤いワンピースに手を伸ばした。

一度しか訪れない今日の私を飾る服。